都道府県コード又は市区町村コード,NO,都道府県名,市区町村名,名称,名称_カナ,名称_英語,POIコード,住所,方書,緯度,経度,利用可能曜日,開始時間,終了時間,利用可能日時特記事項,料金(基本),料金(詳細),説明,説明_英語,アクセス方法,駐車場情報,バリアフリー情報,連絡先名称,連絡先電話番号,連絡先内線番号,画像,画像_ライセンス,URL,備考 302015,0000000001,和歌山県,和歌山市,和歌山城,ワカヤマジョウ,,,和歌山県和歌山市一番丁3,,34.227548,135.171481,,,,,,,姫路城・松山城と並んで、日本三大連立式平山城と称されている和歌山城。和歌山城は天正13年(1585年)紀州を平定した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が自ら縄張りをし、弟の羽柴秀長に築城を命じたことにはじまります。江戸時代後期と第二次世界大戦による戦災の2度にわたる焼失から蘇ったその雄姿は、「日本名城100選」にも選定されています。,,,,,,073-435-1044,,,,, 302015,0000000002,和歌山県,和歌山市,友ヶ島,トモガシマ,,,和歌山県和歌山市加太字苫ヶ沖島2673,,34.283364,135.008523,,,,,,,紀淡海峡に浮かぶ4島、地ノ島、虎島、神島、沖ノ島を総称して友ヶ島と言います。加太港から定期船で約20分で渡る沖ノ島では砲台跡を巡るハイキングコースが人気です。また、日本標準時子午線(東経135°)が通る島の西端では、白亜の西洋灯台が今も紀淡海峡を往来する船舶の安全を見守っています。,,,,,,073-435-1234,,,,, 302015,0000000003,和歌山県,和歌山市,和歌山マリーナシティ,ワカヤママリーナシティ,,,和歌山県和歌山市毛見1527,,34.153507,135.175842,,,,,,,関西国際空港より40分。大阪駅から90分。和歌山市の南部に位置し、万葉の歌人・山部赤人に愛された景勝の地、和歌浦湾、ここに景観との調和を図りながら建設された人工島「和歌山マリーナシィ」。テーマパーク「ポルトヨーロッパ」をはじめ、食通をうならせる「黒潮市場」、天然温泉「紀州黒潮温泉」、リゾートホテル「和歌山マリーナシティホテル」など多彩な施設が集まったリゾートアイランドです。,,,,,,073-448-0011,,,,, 302015,0000000004,和歌山県,和歌山市,恵運寺,エウンジ,,,和歌山県和歌山市吹上3-1-66,,34.219357,135.171647,,,,,,,紀州藩初代藩主徳川頼宣が紀州に入封した際、家臣で参州室(牟呂)城城主であった山本図書正春も随従しました。正春は、顕祖と武功の誉れ高き長昌公のために禅寺一宇を建立し、長昌院と号しました。正春がかねてより帰依していた天厳玄達大和尚も頼宣公の命により入紀し開山者となりました。後に天子様の宝祚の長久、頼宣公の広厳無窮と天下泰平長昌を祈念するため寺号を広厳寺とし、長昌院広厳禅寺、さらに寛政元年(1789)恵運寺と改名し現在に至っています。平成24年には、日本三大忍術伝書の一つ『正忍記(しょうにんき)』を記した紀州藩の軍学者・名取三十郎正澄(なとりさんじゅうろうまさずみ)(1708没)の墓石が同寺で見つかり、翌年「紀州忍者の墓石発見」と大きな話題になりました。,,,,,,073-424-7633,,,,, 302015,0000000005,和歌山県,和歌山市,海善寺,カイゼンジ,,,和歌山県和歌山市道場町1-1,,34.230388,135.163863,,,,,,,豊臣秀吉の文禄の役(1592)で捕えられ大阪に連行された朝鮮の儒学者で、後に紀州徳川初代藩主頼宣に認められ儒学を教える侍講として登用された李真栄とその子・李梅渓の墓「李梅渓父子墓所」が、海善寺山門から道を隔てた東墓地にあります。古くから修験道の行場として知られる友ヶ島にある一島、虎島の絶壁斜面に刻まれた大きな碑文「五所の額」は、頼宣の命により藩の儒学者である李梅渓が刻んだものです。「禁殺生穢悪・友島五所・観念窟・序品窟・閼伽井・深蛇池・剣池・寛文己酉離雕」と、友ヶ島の5つの行場が刻まれており、友ヶ島に渡る定期船からも見ることができます。,,,,,,073-422-2850,,,,, 302015,0000000006,和歌山県,和歌山市,刺田比古神社,サスタヒコジンジャ,,,和歌山県和歌山市片岡町2-9,,34.223805,135.174106,,,,,,,通称「岡の宮」。古くは豊臣秀吉の時代から歴代藩主に本城鎮護の神として崇拝されてきた神社で、8代将軍吉宗公「拾い親」の神社として有名です。当時、厄年に生まれた子どもは、捨て子にすれば丈夫に育つという風習があり、((注)親が大厄の時に生むと、その厄が子どもに移るとされていた。)吉宗も誕生と同時に、和歌山城の南西隅にある扇の芝(和歌山城追廻門周辺)に捨てられました。この時、刺田比古神社の宮司・岡本長諄氏が拾い親とされています。吉宗が刺田比古神社の宮司に拾われたことで厄をはらい、その後強運を得て、異例の出世をしたことから、刺田比古神社は、「出世・開運・厄除け」の神社とされています。吉宗は、自分を拾った当神社に感謝し、産土神(うぶすなかみ)として崇敬し、紀州藩主になってから神田を寄進、将軍になってから二百石の朱印地、黄金装飾の太刀(国宝)、そして神馬一頭を献じ、永く国家安泰の祈願社としました。,,,,,,073-422-6576,,,,, 302015,0000000007,和歌山県,和歌山市,報恩寺,ホウオンジ,,,和歌山県和歌山市吹上1-6-38,,34.22156,135.172065,,,,,,,報恩寺は2代藩主徳川光貞が、母である瑤林院(徳川頼宣正室・加藤清正の息女)の追福のため菩提所であった要行寺を改めて、造営した寺院です。慶長6年(1601)加藤清正の娘として生まれた瑤林院は、頼宣とともに紀州に入り、寛永10年(1633)に江戸の紀州藩邸に移るまで14年間和歌山城で暮らしました。寛文6年(1666)に瑤林院が66歳で亡くなると、同年頼宣は和歌山市の要行寺に葬りました。その後、寛文10年(1670)に第2代光貞は母の追福のため諸堂を建立し、日順上人を開祖として寺号を現在の報恩寺と改め、報恩寺は歴代藩主の夫人・姫ら一族、藩士の菩提を弔う役割を果たしました。境内の石段を登ると、立派な石畳の先に「徳川家御廟」がひっそりと佇んでおり、確かに紀州徳川家の格式が感じられます。左から、初代頼宣の正室・瑤林院、第2代光貞の正室・天真院、そして第5代吉宗の正室・寛徳院の墓と続き、一族藩士の霊が祀られています。江戸時代初期の典型的な作風である本寺の梵鐘や瑤林院の墓は和歌山市指定文化財になっています。なお、頼宣の墓は海南市の長保寺にあります。,,,,,,073-422-9446,,,,, 302015,0000000008,和歌山県,和歌山市,無量光寺,ムリョウコウジ,,,和歌山県和歌山市吹上5-1-35,,34.220266,135.174475,,,,,,,文政11年、10第藩主徳川治宝の時代に、徳本上人を開基として創建されました。寺格として最高位を表す5本の白い横筋が入った築地塀、そして、「禁葷酒肉」、「禁殺生」と刻まれた石碑が建つ山門をくぐると、高さ約3メートルの首だけの大仏があります。地元では、首大仏(くびだいぶつ)の名で親しまれ、「首から上のことなら何でもご利益がある」とされ、受験シーズンが近づくと多くの受験生が参拝します。首大仏ができたきっかけは、江戸時代の半ば、和歌山城下の武家屋敷に仕えていた青年が主人を送り出そうと主人の草履を揃えようとした際、主人の草履の上に自分の数珠を落とすという「不吉」な無礼を働いたことから始まります。青年は、無礼者と主人から叱られ、自分の部屋以外で数珠を持つことと念佛を唱えることを禁じられました。幼い頃から佛心を持ったこの青年は、3日間一睡もせず考え悩み、主人の許しを得て、武家奉公の一切を断ち、御佛に仕えることを決意します。青年は、生まれ故郷・大橋村(現日高郡みなべ町)の菩提寺萬福寺で剃髪出家の儀式を受け、京都の本山に登嶺、3年間の修行にて浄土宗の僧侶となり蓮心と名乗りました。2年後和歌山に帰り着き、名草郡納定にあった破れ傾いた辻堂(後に大福寺と称す。跡地に宮北小学校が建つ。)で足を止め、修復し、怠らぬ念佛三昧に励んでいたところ、ロウソクの火が揺らめき、壇上の御佛が異様に輝き出し、一丈六尺(約4.85メートル)に及ぶ佛様がパッと目の前に現れました。その不思議な現象を村人に語ると、蓮心和尚のためならと村人たちの衆力により露座唐金の丈六佛が建立され、丈六堂と名付けられました。以後、蓮心に教えを請う者が後を絶たなかったといわれています。蓮心滅後、66年後に丈六堂が火災にあい、丈六の大佛が溶けてしまい悲嘆にくれた村人が丈六堂の再興を発願したものの、徳川末期の世態でかなわず、焼け跡を無量光寺の末寺に加え大福寺として復興されることとなりました。第2代は鎌倉の大仏様を目標にと、初代大仏のとけた銅を利用して、まず昆盧遮那佛のお首だけを溶銅で鋳造しました。その後お首に佛体を継ぐことを何度も企てられましたが世勢の騒憂にかなわず、さらに納定の大福寺の伽藍も安政元年の大地震で全部壊滅し、時世とともに寺の維持も困難となり、結局佛体が作られることはありませんでした。大福寺が吹上の無量光寺へ合併されることになった際、惜しむ村人を横目に首大仏はコロに載せ運び出されました。もう一息で納定の地を離れるというところで、コロが燃え出し、首大仏は、納定の方向を振り返りみるように傾き、惜しむ村人の方を見つめたという不思議な出来事が起こり、一度目の運搬は中止されました。その後、再び修復されたお堂も暴風雨で大破し、明治41年(1908)廃寺。首大仏は、本寺である吹上の無量光寺に安置されるようになり、現在に至ります。,,,,,,073-423-5738,,,,, 302015,0000000009,和歌山県,和歌山市,紀三井寺,キミイデラ,,,和歌山県和歌山市紀三井寺1201,,34.185408,135.189849,,,,,,,早咲きの桜として有名で、また西国第2番の札所でもあります。名前の由来は、三つの井戸「吉祥水(きっしょうすい)」「楊柳水(ようりゅうすい)」「清浄水(しょうじょうすい)」から来ています。さて楼門をくぐると、目の前に231段の階段がそびえ、一瞬立ちすくんでしまいます。しかし、登りきったところでホッとして振り返ると、美しい和歌浦湾が遠望でき、旅情がかきたてられます。,,,,,,073-444-1002,,,,, 302015,0000000010,和歌山県,和歌山市,玉津島神社,タマツシマジンジャ,,,和歌山県和歌山市和歌浦中3-4-26,,34.187931,135.171904,,,,,,,稚日女尊をまつっており、和歌の神様と呼ばれております。「玉津島見れども飽かずいかにして包み持ち行かむ見ぬ人のため」など、歌の題材としてもその数は多く、近くには奠供山望海楼、妹背山観海閣、「若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る」で詠まれている片男波など、万葉のゆかりの深い場所となっています。,,,,,,073-444-0472,,,,, 302015,0000000011,和歌山県,和歌山市,紀州東照宮,キシュウトウショウグウ,,,和歌山県和歌山市和歌浦西2-1-20,,34.192643,135.165711,,,,,,,青石を敷きつめた参道は緑のトンネルになっていて、昼でもなお薄暗くひんやりとしています。参道を過ぎると、目の前に急な階段、108段の「侍坂」があり、それを登りつめると朱塗りの楼門があります。元和7年(1621)、初代藩主徳川頼宣が、南海道の総鎮護として創建された社殿は「関西の日光」ともよばれ、権現造りとなっており、左甚五郎作の彫刻や狩野探幽作のふすま絵があります。,,,,,,073-444-0808,,,,, 302015,0000000012,和歌山県,和歌山市,和歌浦天満宮,ワカウラテンマングウ,,,和歌山県和歌山市和歌浦西2-1-24,,34.191638,135.164247,,,,,,,和歌浦湾に望む小高い天神山の中腹に和歌浦天満宮は鎮座しています。その昔、紀ノ川はこの和歌浦湾に注いでいました。神亀元年(724)奈良の都を出発した聖武天皇の一行は紀ノ川を下り、この和歌浦湾に御幸されました。その頃の和歌浦には島々が玉をつらねるように点在し、潮の満ち干きによって変化する、千潟の風景や、葦原と群れ遊ぶ水鳥、水面に写る陽の輝きなど、きっと感動的な景色であったに違いありません。今、和歌浦は時代とともに大きく変わりつつあり、聖武天皇の眺めた「和歌の浦」の風景をそのままとはいえないでしょう。当天満宮楼門から見る和歌浦の風景には遠い昔を彷彿させるものがあります。,,,,,,073-444-4769,,,,, 302015,0000000013,和歌山県,和歌山市,淡嶋神社,アワシマジンジャ,,,和歌山県和歌山市加太118,,34.273501,135.066856,,,,,,,毎年3月3日、全国から奉納された内裏雛を白木の小舟に乗せて海に流す神事「雛流し」が行われる淡嶋神社。境内には、奉納された様々な人形がぎっしりと並んでいます。薬の神様とされる少彦名命(すくなひこなのみこと)を祭神とし、婦人病や安産・子授け祈願など「女性のための神様」として昔から信仰されています。『日本書記』に記されている「三韓征伐」の帰途、瀬戸の海上で突然の嵐に遭遇した神功皇后が船中で祈りを捧げたところ無事にある島(友ヶ島)に辿り着き命拾いをし、三韓渡来の宝物を島に奉納しました。数年後、孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られた際、島にあった社を対岸の加太に移したものが現在の淡嶋神社といわれています。江戸時代には、紀州徳川家姫君誕生の初節句に一対の人形を淡嶋神社に奉納する習慣や10代藩主治宝が造った雛蔵に、姫や腰元が遊んだ道具が代々納められるなど紀州徳川家ゆかりの神社でもあります。,,,,,,073-459-0043,,,,, 302015,0000000014,和歌山県,和歌山市,加太春日神社,カダカスガジンジャ,,,和歌山県和歌山市加太1343,,34.275173,135.074618,,,,,,,国指定の重要文化財である本殿は、慶長元年(1596)に豊臣(羽柴)秀吉の弟・秀長の家臣である桑山重晴が建立したことが棟札に記された「桑山修理亮正榮」によって知られています。御社殿の形式は、「一間社流造、正面千鳥破風及び軒唐破風付き、檜皮葺」で、構造だけでなく雄大で豪壮な彫刻が施され、桃山時代の特徴がよく表れており、京都の大徳寺唐門(国宝)などとともに桃山建築の傑作に数えられるものです。蟇股の彫刻には、龍、虎、唐獅子などの他に加太の地域性を示した「海老」や「貝」など海の恵みも題材にされていることは珍しく、多彩な題材が実に生き生きと表現されています。現在は、素木(しらき)造りのように木の肌がそのまま見える本殿は、かつて華麗な極彩色で彩られていましたが、明治初年の神仏分離の際にすべて洗い落とされてしまいました。色鮮やかに彩色されていた当時の本殿を想像してみると、その絢爛豪華な姿に心が躍ります。例大祭(神事)は、毎年5月20日に行われ、「えび祭り」の名で親しまれている例大祭渡御祭は5月の第3土曜日に行われます。,,,,,,073-459-0368,,,,, 302015,0000000015,和歌山県,和歌山市,足守神社,アシガミジンジャ,,,和歌山県和歌山市木枕343,,34.210205,135.259519,,,,,,,約900年の歴史をもつ「足の神様」で知られる神社。地元では「あしがみさん」の名で親しまれています。スポーツ選手などの尊信を集め、境内には、願いを込めたわらじが数多く奉納されています。崇徳天皇の時代、高野山の高僧で根来寺(ねごろでら)を開創した覚鑁(かくばん)上人がこの地に灌漑用水がなく苦しんでいた農民たちを見て、人々を救いたいと、貴志と山東の境に大池(現在の大池遊園)を作ることを決意。人々を率い、励まし、時には寒暑も厭わず自らも労役に服し、工事を進めましたが、予想以上の難工事であったため作業員や牛馬の足を痛める者が続出しました。そこで上人はこれを憂い、京都愛宕山足千現大明神を勧請し、石室に奉安して足守大明神として尊崇、足病の者のために祈念すると、ことごとく治癒したと伝えられています。その後、根来にて大法城を定めた覚鑁上人が社殿を建立して観音寺と号しました。これが足守観音寺の起源と伝えられています。毎年7月第一日曜日は大祭で、健脚のご祈祷、古いお守りやお札のご供養、覚鑁上人がお告げによりはじめた「灸すえ」(灸治療)などが行われます。,,,,,,073-478-2635,,,,, 302015,0000000016,和歌山県,和歌山市,伊太祁曽神社,イタキソジンジャ,,,和歌山県和歌山市伊太祈曽558,,34.202055,135.249936,,,,,,,伊太祁曽神社についての具体的な年号の初見は「続日本紀」の文武天皇大宝2年(702)です。伊太祁曽神社にお祀りされている神様は、『日本書紀』に木の神として登場する五十猛命(いたけるのみこと)です。日本の国中に木種をまき、緑豊な国土を形成した神様で、最後に現在の和歌山県(紀の国・木の国)にお鎮まりになりました。かつては、日前神宮・國懸神宮(日前宮)の社地にお祀りされていましたが、日前宮の鎮座とともに山東に遷り、大宝2年の官命によって社殿の造営がはじめられ、約10年後の和銅6年(713)に現在の地に鎮座したといわれています。境内には、樹齢千年ともいわれ昭和37年の落雷で枯れた「御神木の大杉」があるほか『古事記』の神話「木俣くぐり」が実体験できる木が置かれており、多くの参拝客が「厄難除」のために木俣をくぐります。,,,,,,073-478-0006,,,,, 302015,0000000017,和歌山県,和歌山市,竈山神社,カマヤマジンジャ,,,和歌山県和歌山市和田438,,34.201011,135.204492,,,,,,,御祭神の彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)は、第一代神武天皇の兄君で、大和平定の途中戦傷、雄水門(おのみなと)で亡くなられ竈山の地に葬られました。今の社地はその遺跡で、約千年前の法律である延喜式の神名帳に「紀伊国名草郡竈山神社」と記され、古くから官幣に与る皇室御崇敬の大社でした。天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉の根来攻めの時の兵禍により、社地社領を没収され、社殿をはじめ宝物・古文書など一切を失いましたが、寛文9年(1669)和歌山城主徳川頼宣が再建、歴代の尊崇を捧げました。明治18年、官幣中社に列せられ、大正4年、官幣大社に昇格、昭和13年には国費及び崇敬者の献資を以って社殿を造営し、境内を拡張して現在に至っています。例大祭は10月13日に斎行,,,,,,073-471-1457,,,,, 302015,0000000018,和歌山県,和歌山市,武内宿禰誕生之井,タケウチノスクネタンジョウノイ,,,和歌山県和歌山市松原83,,34.189737,135.237558,,,,,,,安原八幡神社の奥宮、武内神社境内の長寿殿という建物の中にある産湯を汲んだとされる井戸。古より武内宿禰が長寿で有名なことから、今では長寿の水として親しまれています。武内宿禰は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代天皇に棟梁之臣・大臣として仕え、特に神功皇后の朝鮮半島遠征を補佐したと伝えられています。また、紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏など中央諸豪族の祖と言われる伝説的な人物です。約3世紀にわたり歴代天皇に仕えるほどの長命を保ち、国家に忠誠を尽くし、子孫繁栄をもたらしたという点で古くから理想的な人物として称えられてきました。事跡にあやかり紀州徳川家に子女が産まれた時は、この井戸の水を産湯に使ったといわれています。戦前発行の紙幣にも武内宿禰の肖像画が描かれていました。,,,,,,073-479-0160,,,,, 302015,0000000019,和歌山県,和歌山市,日前神宮・國懸神宮,ヒノクマジングウ・クニカカスジングウ,,,和歌山県和歌山市秋月365,,34.2281,135.202055,,,,,,,創建は神武天皇二年(約2600年前)と日本でも最も古い神社の一つで、神話との関わりが深い紀伊国一之宮。旧官幣大社で、同一境内に二社が並んで建てられ、総称して日前宮(にちぜんぐう)と呼ばれます。ともに天照大神(あまてらすおおみかみ)を前御霊としており、日前神宮の御神体は日像鏡(ひがたのかがみ)、國懸神宮の御神体は日矛鏡(ひぼこのかがみ)で、三種の神器の一つ八咫鏡とともにつくったものといわれ、『日本書記』にも記述されています。毎年、7月26日夕刻から開催される「日前宮薪能」は、紀州の夏の風物詩として定着しつつある「神事能」です。例大祭は、毎年9月26日に斎行されます。,,,,,,073-471-3730,,,,, 302015,0000000020,和歌山県,和歌山市,番所庭園,バンドコテイエン,,,和歌山県和歌山市雑賀崎629,,34.190789,135.140337,,,,,,,雑賀崎から西に、鼻のように突き出て見えるのが、番所の鼻で、藩政時代、紀州藩の海の防備見張り(黒船)番所があったところを整備した庭園。,,,,,,073-444-6533,,,,, 302015,0000000021,和歌山県,和歌山市,紅葉渓庭園,モミジダニテイエン,,,和歌山県和歌山市一番丁3,,34.228774,135.170234,,,,,,,天守閣から北側に下り、右側に白い土塀と青石の石垣が迫る小径を歩いていくと、ひなびた茅門が見えてきます。門をくぐると、しんしんと静まり返った空間が開け、時には青く、時には紅い庭園があります。堀のなかに浮かぶ釣殿「鳶魚閣」は、雨の日にはけむるような水面にほのかに浮かび上がります。木造銅板葺きの屋根が美しい「紅松庵」では、お茶を一服することもできます。,,,,,,073-431-8648,,,,, 302015,0000000022,和歌山県,和歌山市,養翠園,ヨウスイエン,,,和歌山県和歌山市西浜1164,,34.193739,135.152102,,,,,,,養翠園は、文政元年(1818)から8年をかけて10代藩主治宝(はるとみ)が造営した西浜御殿の別邸で、徳川中期の代表的な武家庭園とも言われる池泉回遊式庭園となっています。中国の西湖を模したとされる三ツ橋などが架かり、デザイン的に曲線と直線を効果的に配置しています。また、海水を取り入れた池としても珍しいものです。数寄屋づくりの養翠亭や表千家の茶室も風情があります。また園内には季節になると紫陽花などが咲き、私たちの目を楽しませてくれます。,,,,,,073-444-1430,,,,, 302015,0000000023,和歌山県,和歌山市,深山砲台跡,ミヤマホウダイアト,,,和歌山県和歌山市深山,,34.296529,135.072471,,,,,,,深山砲台跡は、友ヶ島地区、淡路島の由良地区の砲台とともに明治時代に築かれた由良要塞の一部で、大阪湾を防衛する役割を担っていた施設です。現在は瀬戸内海国立公園に編入され、砲台跡周辺は歴史と自然を感じることができるハイキングコースとして観光客に人気のスポットとなっています。,,,,,,073-435-1234,,,,,